
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン Rogier van del Weyden
(1399/1400〜1464)
ロヒールは完成度の高い様式の宗教画を描いた。ミケランジェロは「涙もろい女子供を喜ばせる宗教画」と評したとされるが、北方絵画全体、さらにイタリア美術にまで影響を与えた。
1399/1400年にトゥルネに生まれ、1427年にロベール・カンパンのもとに弟子入りし、1432年には親方の称号を得ている。1426年頃に1児の父となっていて、修業を始めたのはかなり遅くなってからだった。独立してルーヴァンに滞在したあと、1435年にブリュッセル市に住み、市の画家という称号を得ている。1450年の聖年には巡礼としてローマを訪れている。しかしイタリアでの行動は解っていない。1464年6月にブリュッセルで死去し、トゥルネでも追悼のミサがおこなわれている。
年記と署名がある作品は残されていない。1574年にフェリペ2世がエスコリアル宮に送った作品の中に4点、ロヒールのものがあり、うち3点が残されている。「十字架降下(1435〜38年頃)」、「聖母とヨハネの間の十字架上のキリスト(1460年頃)」、「聖ルカ・聖母を描く聖ルカ(1435年頃)」。これらを基準作として、様式などから制作年代が推定されている。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴
(1399/1400〜1464)
ロヒールは完成度の高い様式の宗教画を描いた。ミケランジェロは「涙もろい女子供を喜ばせる宗教画」と評したとされるが、北方絵画全体、さらにイタリア美術にまで影響を与えた。
1399/1400年にトゥルネに生まれ、1427年にロベール・カンパンのもとに弟子入りし、1432年には親方の称号を得ている。1426年頃に1児の父となっていて、修業を始めたのはかなり遅くなってからだった。独立してルーヴァンに滞在したあと、1435年にブリュッセル市に住み、市の画家という称号を得ている。1450年の聖年には巡礼としてローマを訪れている。しかしイタリアでの行動は解っていない。1464年6月にブリュッセルで死去し、トゥルネでも追悼のミサがおこなわれている。
年記と署名がある作品は残されていない。1574年にフェリペ2世がエスコリアル宮に送った作品の中に4点、ロヒールのものがあり、うち3点が残されている。「十字架降下(1435〜38年頃)」、「聖母とヨハネの間の十字架上のキリスト(1460年頃)」、「聖ルカ・聖母を描く聖ルカ(1435年頃)」。これらを基準作として、様式などから制作年代が推定されている。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴
1432年頃の「壁龕のなかの聖母子」ではヤン・ファン・エイクの「ゲント(ヘント)祭壇画(1432年)」からの影響がみられる。1435年頃の「聖母を描く聖ルカ」ではヤンからの影響の他に、曲線を対応させることで生まれるロヒール独自の表現法もみられる。ネーデルラント絵画に大きな貢献をしたとされる「十字架降下」。
「キリストの磔刑の祭壇画(1440年頃)」では緑の丘が連なる風景が広がっている。「聖母祭壇画(ミラフローレス祭壇画 1440年頃)」では3つのアーチのなかに聖なる人々が描かれ、アーチによって背景と見ているこちら側とが分けられている。イタリア旅行の後に描かれたとされる「洗礼者ヨハネ祭壇画」ではアーチの前に人々が描かれ、アーチの中には奥行きのある室内や広い風景が描かれている。「七つの秘跡の祭壇画(1455年頃)」では大聖堂の身廊と側廊の広い室内空間が描かれている。
「最後の審判の祭壇画(1445〜50年)」はボーヌの施療院に置かれるためか、位階的な天上が描かれている。この作品については、名画への旅9 北方ルネサンス1 講談社で詳しく解説されている。また聖母子と向かって祈る者の肖像を組み合わせた、二連祭壇画という形式を生み出したともされる。
宮廷画家だったヤンは後継者を持たなかったが、「ブリュッセル市の画家」・市井の画家だったロヒールは多くの弟子を使って工房を経営していたと考えられる。15世紀後半にかけて、初期フランドル絵画に大きな影響を与えた。
「キリストの磔刑の祭壇画(1440年頃)」では緑の丘が連なる風景が広がっている。「聖母祭壇画(ミラフローレス祭壇画 1440年頃)」では3つのアーチのなかに聖なる人々が描かれ、アーチによって背景と見ているこちら側とが分けられている。イタリア旅行の後に描かれたとされる「洗礼者ヨハネ祭壇画」ではアーチの前に人々が描かれ、アーチの中には奥行きのある室内や広い風景が描かれている。「七つの秘跡の祭壇画(1455年頃)」では大聖堂の身廊と側廊の広い室内空間が描かれている。
「最後の審判の祭壇画(1445〜50年)」はボーヌの施療院に置かれるためか、位階的な天上が描かれている。この作品については、名画への旅9 北方ルネサンス1 講談社で詳しく解説されている。また聖母子と向かって祈る者の肖像を組み合わせた、二連祭壇画という形式を生み出したともされる。
宮廷画家だったヤンは後継者を持たなかったが、「ブリュッセル市の画家」・市井の画家だったロヒールは多くの弟子を使って工房を経営していたと考えられる。15世紀後半にかけて、初期フランドル絵画に大きな影響を与えた。